焼酎の歴史 アリストテレスや島津斉彬が影響 なぜ九州なのか

焼酎は日本古来から飲まれている…と思いきや、実は焼酎の起源がいつ頃なのか正確な年月日は分かっていません。

焼酎製造には必須の蒸留技術は紀元前4~3世紀頃には始まっており、様々な国々を伝わり日本へと技術がもたらされることで、泡盛や黒糖焼酎・芋焼酎・麦焼酎・米焼酎など歴史的にも興味深い発展を遂げているんです。

それではどのように蒸留技術は伝わり焼酎へと発展していったのか、焼酎の歴史を見てみましょう。

 

焼酎の歴史

焼酎を作るのに必要不可欠な「蒸留」ですが、世界の歴史上蒸留が用いられたのは、紀元前4世紀~3世紀頃のメソポタニア文明になります。すでに香水を精製するため蒸留技術が用いられていました。

 

紀元前3世紀頃の古代ギリシャの哲学者であるアリストテレスは、塩水を蒸留すれば飲める水に変わると論文を発表しています。

 

その後蒸留技術は、アレキサンダー大王の紀元前334年から始まった東方遠征により、蒸留技術は世界各地に広がることになったのです。

 

その後8世紀(700年~)頃、錬金術師であるジャービル・イブン・ハイヤーンが現在の単式蒸留器の原型である「アランビック」と呼ばれる蒸留器を用い、ワインを蒸留しブランデーやエチルアルコールを蒸留したことが分かっています。

 

11世紀(1000年~)にはヨーロッパに蒸留技術が伝わり、葡萄酒(ワイン)を蒸留したブランデーを「命の水(アックア・ヴィータ)」と呼び、当初医療目的で使われていました。

 

15世紀になるとヨーロッパ以外への侵略や国際交流が活発化し、大航海時代へと突入。長い船旅を耐えるべく長期保存のきく蒸留酒(ラム酒)がもてはやされるようになり、船と共に蒸留酒も世界中に広がっていったのです。

 

そして日本へ初めて蒸留技術が伝わったのが室町時代中期(15世紀)とされており、焼酎の名称が初めて登場したのは室町時代末期(16世紀中期頃)。

 

焼酎についての最古の記録としては、1546年に日本を訪れたポルトガル商人ジョルジュ・アルバレスがフランシスコ・ザビエルへの報告書の中に、「人々は米から作るオラーカ(焼酎)を飲んでいた」と書いていることから、16世紀頃には九州に製造技術が伝わったと考えられます。

 

焼酎の起源

 

日本における焼酎の歴史や起源は正確には分かっておらず、起源には諸説あるようです。

 

  • 14世紀頃、武装集団倭寇(わこう)が東シナ海に進出、海上取引の中で焼酎が持ち込まれた。
  • 15世紀頃、日本は中国をはじめ朝鮮やはるか遠くの西洋諸国とも貿易取引きがあったため、貿易船の中に各国の酒も輸入されており、朝鮮の焼酎が壱岐・対馬を経由し国内に入ってきた。

 

数々の説がありますが、一番有力とされているのがタイから琉球・薩摩を経由し全国へと伝わったという説。

 

天文3年(1534年)に書かれた「陳侃使琉球録」によると、琉球には南蛮酒というシャムから渡来した酒についての記述があり、15世紀頃シャム(現在のタイ)より「ラオロン」と呼ばれる糖蜜ともち米を原料とした蒸留酒が輸入されていました。

 

その後蒸留酒が琉球王朝の宮廷酒として飲まれるようになり、沖縄から薩摩(鹿児島)へ伝わったことで沖縄で泡盛が作られ、焼酎造りの製法が日本全国へ広まったとされています。

 

沖縄で泡盛がはじまる

中国や東南アジアとの交易を通じ、少なくとも15世紀、1470年には蒸留技術が伝えられた頃には、泡盛の原型に近い蒸留酒が作られていたようです。

 

シャムとの交易は15世紀後半になると交易が減ったことから、琉球独自の焼酎である泡盛が作られるようになったと考えられています。

 

1609年の琉球侵略により薩摩(鹿児島)は琉球王朝を付庸国、つまり一定の自治権を認められるようになり、薩摩を通じ泡盛は琉球王朝から徳川幕府への献上酒は「薬用酒」として飲まれるなど、貴重な酒として重宝されていました。

 

泡盛の需要が高まるにつれ、17世紀頃(1600~)になると琉球王朝は泡盛醸造の場所を首里城周辺の「鳥堀」「赤田」「崎山」(首里三箇)でのみ泡盛を製造するよう厳命されていたのです。

 

琉球王朝から命を受けた焼酎職は、製造の失敗や横流しには重い罰が科されたりと厳しく管理されていましたが、泡盛はすでに庶民の間に広がっていたため密造も盛んだったようです。

 

その後琉球王朝は廃止され沖縄県となり、泡盛も自由に製造できるようになりましたが、第二次世界大戦が勃発。

 

沖縄は日本国内で唯一の地上戦が起こったため、醸造所が多数あった首里城周辺も壊滅的な被害を受け、泡盛製造に必要不可欠な黒麹菌が失われてしまったのです。

 

泡盛は一時期製造が危ぶまれる危機に直面しましたが、当時麹を作成していたゴザが発見され蒸米を広げたところ、見事黒麹菌の繁殖に成功。

 

このことで泡盛は復活し、現在でも沖縄だけでなく日本国内の愛好家に愛されています。

 

鹿児島に伝わった焼酎づくり

 

鹿児島の焼酎の歴史は統治していた琉球王朝と密接な関係にあったこともあり、沖縄経由で焼酎の製造法が伝わったと言われています。

 

江戸中期頃、16世紀(1500~)には米焼酎が主流でしたが、鹿児島は火山灰が主なシラス台地なため米作りには適していなかったのです。

 

宝永2年(1705年)に沖縄経由でさつまいもの苗が鹿児島へと持ち込まれたところ、栽培は大成功。

 

さつまいもは植えた後手間もかからず火山灰が多いシラス台地は栽培に向いていたこと。薩摩藩が栽培を推奨したこともあり、さつまいもの栽培は広がっていきました。

 

こうしてさつまいもを原料として芋焼酎が作られるようになった19世紀(1800~)には、家庭内での芋焼酎の製造を禁止し、薩摩藩主の島津斉彬が芋焼酎製造を推奨したことで、薩摩藩内の都城市などに広がったのです。

 

元々島津斉彬が芋焼酎造りを推奨したのは、西ヨーロッパに対抗すべく軍備の近代化を目指し、機械工業に着手しようとしていたから。

 

工業製品には工業アルコールが必須ですから、安い芋で焼酎を大量生産し、余った焼酎を薩摩の特産物にするよう島津斉彬が命じたことで、芋焼酎は鹿児島県の特産物になった訳です。

 

九州全般に伝わり焼酎づくりが本格化

九州における焼酎の歴史は、当時の琉球で泡盛が誕生したことに始まります。

 

沖縄に泡盛が作られるようになったのが15世紀、その後鹿児島を経由し宮崎南部や熊本の人吉・球磨でも焼酎でも作られるようになっていきます。

 

昭和29年に鹿児島県大口市の郡山八幡の改修中に発見され、永禄2年(1559年)に書かれた木片には、

「神社の座主が大変ケチで、一度も焼酎を飲ませてくれなかった」

と宮大工の文句があったことから分かる通り、元々九州では15世紀(1400年~)には熊本の人吉・球磨(ひとよし・くま)ではすでに焼酎が飲まれていたと推察されます。

 

泡盛が鹿児島へ伝わった後、焼酎の製造法は宮崎県南部・熊本県人吉(球磨)へは16世紀末には宮崎北部、高千穂へと伝わり、17世紀の中頃までに焼酎が作られるようになりました。

 

この当時南九州では米は貴重だったこともあり、あわ・ひえ・きびなどの雑穀から焼酎が作られていたと思われます。

 

その後17世紀に入り、元々清酒を多く造っていた北九州(福岡)では清酒の搾りかすである酒粕を蒸留する「粕取り焼酎」が誕生。

 

16世紀には長崎県の壱岐島でも朝鮮との交易の中で焼酎の製造法が伝わっていたとされており、麦焼酎発祥の地とも言われています。

 

元々壱岐は米作りが盛んな土地でしたが、米(麦)を年貢として納める必要があったこと、島民暮らしのが貧しく清酒よりも安い焼酎の方が身近だったことも、壱岐焼酎が発展した理由のひとつでしょう。

 

また、明治から大正にかけて奄美大島でも黒糖をつかった焼酎がはじまりました。

 

1951年に麦の統制撤廃で麦が自由に変えるようになると、大分でも麦麹を使った焼酎が開発が始まり、その結果1973年に100%麦で作った焼酎「大分麦焼酎」が登場し、一大ブームを巻き起こしました。

 

九州には日本酒の蔵が少なく焼酎の蔵が多いですが、これにはいくつかの理由があります。

  • 蒸留酒が沖縄から九州に伝わったから
  • 焼酎作りに使う黒麹(白麹)の管理には温暖な気候が適していた
  • 焼酎の原料である芋や麦の産地だから

など、いくつかの理由が重なったことで九州全体にいろいろな種類の焼酎が広がったと考えられます。

 

焼酎甲類の誕生

焼酎が日本に伝わった室町時代から明治時代まで「らん引き(兜釜式焼酎蒸留器)」と呼ばれる蒸留器で1回のみ蒸留される単式蒸留、乙類焼酎のみでした。

 

江戸末期の1826年、スコットランドのロバート・スタインが原型を開発、1830年にアイルランドのイーニアス・カフェが改良・開発し特許を取得した「カフェ式連続式蒸留器」、つまり「連続式蒸留器」が発明されることで、ウィスキーの大量生産が可能になったのです。

 

その後イギリスで改良されたイルゲス式連続蒸留器が明治28年に日本へと輸入され、連続式蒸留器により不純物がなく純粋なアルコールを抽出できるようになり、甲類焼酎が誕生することになりました。

 

戦後の甲類ブーム

 

第二次世界大戦が終わって間もない昭和24年、戦中・戦後間もなく続いていた酒の配給制度が終わり、米・麦を原料としない焼酎、洋酒などの製造が自由化されました。

 

原料にさとうきびのしぼりかすや芋(干し芋)を使い大量生産が可能な甲類焼酎は、深刻な戦後の物資不足における民衆の救世主となった一方、戦後の混乱期の中粗悪な密造酒が増えたことから、甲類焼酎のイメージが悪化。

 

その後焼酎メーカーの努力もあり、高品質の甲類焼酎が多数発売されクセのない味わいはその後も愛されています。

 

缶チューハイからチューハイが人気

 

1980年代、缶チューハイがきっかけとなりチューハイブームがおこります。

 

チューハイとは、甲類焼酎に炭酸水や果汁・ジュース・ウーロン茶などで割ったもの。日本の酒税法では、焼酎ではなくリキュールとして分類されています。

 

1980年代になると「チューハイブーム」が起き、今まで焼酎を飲んだことがなかった若者層にも安くて手軽な缶チューハイが大人気になります。

 

当時の酒税法ではウィスキーの税率が高く、ウィスキーで作るハイボールの価格が高かったこともあり、クセがなく低価格の甲類焼酎で作るチューハイは一気に浸透していきました。

 

缶入りチューハイの人気に火を付けた「タカラcanチューハイ」を皮切りに、大手ビール会社がチューハー市場に参入することで市場が活性化。

 

現在でもフルーティな味わいの「キリン氷結シリーズ」アルコール度数が高い「ストロングゼロ」などのヒットが続いています。

 

下町のナポレオンが大爆発

 

同じ時期に麦焼酎のいいちこが人気になります。癖のない味わいから梅干し、レモンなどで割ることが流行る。

 

缶チューハイがブームになった頃と同時期に「いいちこ」は一大ブームを巻き起こしました。「いいちこ」とは販売元の三和酒類がある大分県の方言で「いいですよ」という意味。

 

商品名である「いいちこ」や定番のキャッチフレーズである「下町のナポレオン」は地元での一般公募の中から選ばれ、1979年に発売されました。

 

当時は、焼酎は香りがきつい、アルコール度数が高いと敬遠する人も多かったのですが、麹や原料、製法の欠点を克服、麦特有の臭みをおさえ、華やかな香りとすっきり飲みやすい焼酎に仕上がてブレイクします。

 

いいちこはすっきりとした飲みやすさと香り、クセのなさからレモンサワーやいいちこのお湯割りなど様々な飲み方ができるため、爆発的なブームにつながったといえます。

 

なおいいちこは2020年に「いいちこ下町のハイボール」を発売し、精力的に販路を広げています。

 

本格焼酎ブーム

本格焼酎

 

本格焼酎ブームは平成15年(2003年)に起こります。

 

それまで焼酎といえば麦焼酎が中心でしたが、当時時代の風潮として消費者の健康志向とメディアが芋焼酎を取り上げたことで、本格焼酎ブームを巻き起こしたのです。

 

本格焼酎がブームになった背景には、

  • 今までチューハイのベースや水割り・お湯割りで飲むものでしたが、本格焼酎ブーム以降は焼酎本来の深い味わいや素材の香りを楽しむ消費者が増えた。
  • 焼酎は蒸留酒なため糖質やプリン体がゼロ、血糖値を下げる効果があること。

など、健康ブームやマスコミに多数取り上げられたこともあり、一大本格焼酎ブームが巻き起こり、コンビニでの販売、居酒屋やバーやラウンジにも焼酎ボトルがキープされるようになりました。

 

ブームが起きた翌2004年には50年ぶりに焼酎が日本酒の出荷数を上回るほど、本格焼酎を求める人が増えたことを裏付けています。

 

この頃から「森伊蔵」や「魔王」「村尾」「伊佐美」などのプレミア価格が付くほどの芋焼酎が流行ったことも、本格焼酎ブームの象徴とも言えるでしょう。

 

現在では、本格焼酎の飲み方もウイスキーのハイボールをヒントに焼酎の炭酸割りが浸透してきました。本格焼酎のソーダ割を「乙ハイボール」と呼び、居酒屋さんなどで提供するような状況です。

 

焼酎の歴史からもわかるように蒸留酒のひとつとして日本の蒸留酒が焼酎として多様性が歴史を見てご理解いただけたでしょうか。

 

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